人は“死んだらしまい”?

2013.02.02 Saturday 08:55
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       昨年、いじめにより自殺をした少年の事件が起こり、その報道などから、様々な問題が明るみになりました。そして今度は、大阪の市立高校で、教師からの体罰に耐えかねた生徒が、自ら命を絶ちました。彼は、バスケットボール部のキャプテンであり、キャプテンだからという理由から、他の生徒達以上に、体罰を受けていたようであります。責任感のある生徒であったのでしょうが、それ故自責の念にかられ、悲しい結果を迎えてしまいました。

      私たちが布教の場で、“日頃からお念仏を称えておりますと、命が尽きた時、必ず極楽に往生するのです”と説いております。しかし、“人間は死んだらしまいや”とおっしゃる方もおられます。人それぞれ、色んな考えはありますが、本当に人間は“死んだらしまい”なのでしょうか?

      知り合いの人、特に親族や近親者が亡くなると、その故人の思い出はいつまでも残っていきます。つまり、残された者の心の中に、亡くなられた人は生き続けるのです。また、その方の業績や生き様も語り継がれ、後世の人に受け継がれていきます。現に、お釈迦様や法然上人のご生涯を学び、私たちは長い人生の中で、その先徳から得たことを生かして、より良い人生を歩むことができるのです。 

     さて、いじめにより自殺をした少年や、体罰により自殺をした生徒はどうでしょう?もちろん、どういう理由があろうと、自ら命を絶つということは、あってはならないことであります。しかし、その苦しい気持ちは、その当人しか知り得ないことですし、経験していない私たちが、軽々しく言えることではありません。ただ残念なのは、“死”という選択肢しか考えられなかったことで、私たちはその他の選択肢を選ぶことが出来るような環境作りをしなければなりません。

      今回のいじめや体罰により、新聞やテレビで報道されたことで、今まで看過されてきた問題が浮き彫りにされ、学校や生徒、そして各家庭だけでなく、社会全体で熟考し、二度とこのような悲劇を生むことが無いようにしなければなりません。

      仏教には、自分の身を犠牲にして他者を救うという“利他の精神”が説かれます。いわゆる菩薩の精神です。少々暴論ではありますが、自殺をした彼等は、自分の身を犠牲にして、いじめや体罰がいかに愚かな行為であるかを示してくれました。遺族にとっては悲しみしか残らないことではありますが、彼等が私たちに残していったものを生かすことで、彼等も救われるのではないでしょうか。
     彼らが晴れて極楽へ生まれ、あの苦しみから解き放たれたことを祈り、“死んだらしまい”ではなく、私たちも彼らのいる極楽へ、倶に生まれるために、お念仏をお称えいたしましょう。
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